江戸絵画の新奇性 – 円山応挙の浮絵

日本絵画は古代以来伝統的に立体感や奥行き感の浅い、どちらかというと平面性の強い表現を特色としていた。しかし18世紀江戸中期に至り外来文化の影響を受けて透視図法を学ぶようになり、浅い空間から一気に深みのある空間表現を獲得するようになる。更にそれを鏡やレンズを着装した覗カラクリを使うと景色が画面から浮き出したように強調される。この新奇な空間表現が浮絵と呼ばれるものであった。この浮絵は江戸時代前期の浮世絵師、奥村政信によって盛んに描かれたが、その精度を格段に上げたのが円山応挙である。


応挙は少年の頃から京都の町中にあった尾張屋という玩具商で丁稚奉公をしながら様々な玩具の制作に携わっていたが、その中の一つが覗眼鏡に使用する浮絵であった。よく知れているものに「三十三間堂通し矢」を描いたものがあるが、典型的な一点透視図法で描かれ、これをレンズを通して見ると更に遠近感が強調されて、正に画面から浮き出して見えるところに人々は興味津々であった。

覗き眼鏡と浮絵「三十三間堂通し矢」
覗き眼鏡と浮絵「三十三間堂通し矢」

応挙はこうして若い頃から眼鏡絵(浮絵)を手がけていたのであるが、更に興味ある応挙の浮絵を発見したことがある。今から30年ほど前のことであるが、三井南家が所有する応挙関係資料を調査した際のことである。長持にぎっしり詰まった資料の中に小さな桐箱に入った浮絵があった。それには明治期の三井南家の当主であった三井高徳の箱書があり、蓋表には「応挙先生筆京都堀川夜景浮絵」、蓋裏にはこの箱書きをした明治35年の2年前明治33年に当時の三井寺圓滿院祐玉門主から譲り受けたものであること、そしてこの浮絵は明和、安永期に祐常門主のために描かれたものであることが記されている。


圓滿院門主祐常と三井家は画家応挙にとって最も重要なパトロンであった。青年期の応挙が祐常門主と出会うことによって、応挙は日本絵画の新しい方向性を見出して行く。祐常門主の知的好奇心を満たすべく様々な試みをするのであるが、この種の浮絵もそうした試みの一つであった。


また三井家、特に南家の歴代当主は応挙を経済的に支えると同時に応挙に弟子入りして絵画を学んでいた。南家に残されてきた応挙関係資料は応挙と三井家の関係の深さを示す証左でもあろう。


さて、当の浮絵であるが、真っ青な空を背景に京都堀川通りの賑わいが描かれている。


やがて日が暮れ始め、提灯に明かりがともり始める。


そしてあたりが闇に包まれると提灯の輝きは一層増し、空には星が輝き始める。

この浮絵の特徴は一枚の絵で昼間から夕暮れ、そして夜へと移る時間経過がカラクリの手法を用いて表現されていることである。提灯はくり抜き、夜空の星は画面に小さな穴を開け、薄い紙で処置をしている。そして周囲の光を徐々に遮ると同時に後ろからロウソクを近づけると時間の経過の中に夜景がくっきりと浮かび上がるよう演出されている。


18世紀という時代は世界的に見ても様々な分野で新奇性を追い求める時代であったが、日本においてもその例外ではなく、江戸時代18世紀には様々な動きがあった。その動きは外来文化に影響され牽引される要素が多かったが、その核となるのは「虚」ではなく「実」を求める精神にあったように思われる。絵画は「絵空事」とも言われるように、空事であるからこそ絵だという考え方が伝統的であったが、ここに来て「実」を知ること、まるで本物のように見えることが人々を驚かせる時代になった。日本における本当の意味での写実の時代の到来である。絵画は平面性になじむところがごく普通であった時代に、描かれた建物や人間が実際に手に取るように、まるで画面から飛び出して来るように見えることは驚きであったに違いない。応挙の「夜景浮絵」も描かれた状景は青空の下、人の群れ集う堀川通りの賑わいという場面が固定されているが、まさかその場面が時間の経過とともに移ろっていくことは想像だにしなかったことであろう。その移ろいを見て人々は驚いたり楽しんだりしたに違いない。祐常門主と応挙の企みは正にその点にあったのであろう。一枚の小さな浮絵であるが、新奇性を求める江戸中期の時代性を遺憾なく物語っている。

 

Writer:佐々木丞平 京都国立博物館名誉館長・京都大学名誉教授

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