日本にインフレは到来するか

為替円安と日米の金融政策スタンスの違い

為替円安が進展している。1年前にはほぼ1ドル=110円であった為替レートは、5月の初めに1ドル=130円を付けた後、6月7日には1ドル=133円まで円安が進んでいる。


【図表1】為替レートの推移

出所: 日本銀行「月例経済報告等に関する関係閣僚会議提出資料」 2022年5月25日

急速なインフレ加速に伴い、大幅な金融引き締めに転じた米国と「強力な金融緩和を粘り強く続けていく」(黒田東彦・日本銀行総裁)方針を堅持する日本との金融政策スタンスの違いが円安の進展に影響しているとの見方が一般的である。本日のコラムでは、日本では、米国とは異なり、なぜインフレがなかなか加速しないと見込まれるのかを取り上げたい。


消費者物価:日本のインフレ率は低い

消費者物価でみたインフレ率を比較すると、米国は前年比で+8%台まで加速しているが、日本は直近でも+2%にとどまっている。


【図表2】消費者物価上昇率

出所:黒田東彦「金融政策の考え方―物価安定目標の持続的・安定的な実現に向けて―」2022年6月6日

日本のインフレは、ガソリン代、電気代などのエネルギー価格上昇の寄与が大きく、サービスなど国内要因の物価上昇の寄与はかなり小さくなっている。この点は、インフレに占めるサービスの寄与が大きく、賃金上昇を起点とするホームメード・インフレが生じている米国とは大きく異なっている。


コロナ禍の影響1:日本の個人消費の回復は遅れている こうしたインフレ率の違いには、米国と日本の景気の回復度合いの格差、とりわけ、個人消費の回復度合いの違いが影響していると考えられる。


【図表3】個人消費

出所:黒田東彦「日本における金融政策の役割」2022年4月22日

米国は、コロナ禍が一服した後、個人消費が急速に回復し、景気が好転している。一方、日本では、コロナ禍からの立ち直りに時間を要しており、足もとにかけても個人消費の回復は緩やかにとどまっている。日本では、飲食、旅行・宿泊などのサービス消費は、20~39歳の若年層は既にコロナ前を上回る水準まで回復しているが、40~64歳の中年層や65歳以上の高齢層ではコロナ感染を警戒して消費スタンスは慎重で、コロナのダメージから回復できていない。景気が好転している米国ではサービス価格の値上げが目立っているが、需要が弱い日本ではサービス価格を引き上げようという動きは限定的となっている。


コロナ禍の影響2:日本の労働者はコロナを怖れずに働き続けている

一方、日本では高齢者を含め、労働者はコロナ感染に対する警戒感を持ちつつも就労を継続している。コロナへの感染を怖れ、かなりの数の高齢者が仕事を辞めて引退してしまった米国とは大きく異なっている。図表4は、労働参加率(就業する意思がある者が人口に占める比率)である。米国の労働参加率は、コロナ禍を受けて1%ポイント以上低下しており、景気回復に伴う求人増で人手不足に拍車がかかり、賃金が急速に上昇している。一方、日本では、労働参加率はほぼ横ばいを維持しており、就業者は一定数確保されていることから、米国に比べると労働力には余裕がある。このため、賃金上昇率が加速する傾向が見られていない。以上のように、米国と日本では需要サイドの個人消費と供給サイドの労働需給の動きが対照的であり、米国と日本のインフレ率の違いをもたらす要因となっている。


【図表4】労働参加率

出所:黒田東彦「日本における金融政策の役割」2022年4月22日

ウクライナ・ショックの影響:エネルギー価格上昇は日本の景気を悪化させる

コロナ禍からの回復に伴うエネルギー需要の増加に加え、ロシアのウクライナ侵攻に伴うエネルギー供給不安の高まりにより、原油や天然ガスの価格が急上昇している。


【図表5】エネルギー価格

出所:黒田東彦「日本における金融政策の役割」2022年4月22日

その結果、日本における鉱物性燃料(原油、天然ガス、石炭)の貿易収支の赤字幅は、足もとGDPの4%まで拡大している。


【図表6】エネルギーの貿易収支

出所:若田部昌澄「最近の金融経 済情勢と金融政策運営」2022年6月1日

この分だけ、日本が稼いだ所得が海外に流出することを意味しており、景気を悪化させる要因となる。中国など新興国の急成長から原油や食料価格が急上昇していた2007~2008年の局面では、日本の鉱物性燃料の貿易赤字幅はGDPの6%近くまで拡大していた。この結果、世界的な金融危機であったリーマンショックが発生する前から、日本の景気は後退を始めていた。


今回の局面では貿易赤字幅はそこまでは拡大していないが、先行き、日本の景気を悪化させる大きなリスクとなっている。さらに、日本との貿易関係が深い中国や東南アジア諸国の多くも、エネルギー資源に乏しいことからエネルギー価格上昇のダメージが大きくなる。これらの国の景気が悪化すれば、日本からの輸出が減少することを通じて、日本の景気が悪化する可能性がある。


一方、米国は、シェール・オイルやシェール・ガス開発の進展から鉱物性燃料の貿易収支は近年大きく改善しており、ごく最近では小幅の黒字に転じている。米国は既に資源国になりつつあり、ウクライナ・ショックによるエネルギー価格上昇は、米国経済全体としてはマイナスには作用しないと見込まれる。もっとも、エネルギー産業が利益を拡大する一方で、家計はガソリン価格上昇で大きなダメージを受けることになるため、国内における格差の問題が深刻化する可能性が高い。これが米国経済のリスクである。


それでも、日本企業の価格転嫁意欲は高まっている

日本経済は、景気回復過程にあるがその回復力はしっかりしたものとはいえない。このため、賃金上昇の拡大を通じてホームメード・インフレを加速させる状況には至っていないと考えられる。ただし、今後、一定の範囲内ではあるが、インフレ率が高まるリスクがある点には留意が必要である。図表7は「短観」で調査された企業の販売価格判断DIであるが、これによると、自らの製品・サービス価格を引き上げている企業の割合は既にリーマンショック前の2007~2008年の局面を上回っている。


【図表7】「短観」の販売価格判断DI


これは、これまで原材料価格上昇を価格に転嫁せずに企業自らの努力でコスト増加を吸収していた企業が、我慢の限界に至り、遂に価格引き上げに乗りだしつつあることを示している。2007~2008年の局面では、コスト増加分を賞与など人件費カットによって吸収した企業が多く存在したが、今回は、賃金カットなど人件費カットを行うことが難しいことに加え、エネルギー価格上昇のほか為替円安が進展していることも影響しているとみられる。

 

一方で、賃金上昇率は高まっておらず、家計の所得の伸びも拡大していない。物価上昇に伴い、実質ベースでみた所得の伸びはマイナスに落ち込みつつある。このように家計の状況は苦しいが、企業の値上げ方針に対して、半ばあきらめに近い気持ちで、やむなく値上げを受け入れようとの雰囲気が広がっている様子が、アンケート調査等で見受けられている。


その際、家計が、(1)コロナ禍における消費抑制や定額給付金の受け取りによって積みあがった貯蓄を取り崩して値上げ分を穴埋めし、支出増加を許容する方向で対応するのか、それとも、(2)支出を増やさないようにするために、値上げ分は購入数量を削減する節約志向を強めることになるのか、いずれの選択を行うかがポイントである。この場合、節約志向は必ずしも同一分野に生じるわけではない。エネルギーや食品値上げ分の支出増加分を、旅行・宿泊などのサービス消費の抑制で穴埋めする可能性もある。いずれにせよ、家計の支出スタンスが今後の日本の景気を左右しそうである。

 

Writer:肥後 雅博 東京大学大学院経済学研究科教授・前日本銀行京都支店長

閲覧数:74回0件のコメント

関連記事

すべて表示