伝統と未来

「伝統」は「過去」と切り離すことはできない。というか「過去」という時間の層の中で実在する事象でもある。伝統を守るとなると過去という衣を着た事象をできる限りうぶな形で見守り続けることになる。しかし伝統を生かすとか、伝統に学ぶとなると、伝統が内包していた過去という時間層は途端に未来という方向を向くことになる。それは伝統というものを静止した状態から動的な状態に向かわせることにもなる。2019年に開催された国際博物館会議ICOM京都大会のテーマ「伝統を未来へ」も正にこうした伝統が内包する過去とどのように対峙するかという普遍的な課題でもあった。


伝統と革新とか、伝統と未来といった問題を考えるとき、私はいつも孔子の「学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」という言葉を自分なりに伝統と未来の関係に当てはめて解釈し大切にしている。過去を学び伝統を学ぶのは良いが、その先のことに思考を巡らさなければ行く先は暗いものになる。また未来のことばかりに思いを馳せ過去に目を向けなければ非常に危うい状態になる。最近の様々な文化事象を見ても伝統は眼中に無く、新しさのみを求めるものも多くなったが、孔子流にいうとこれは極めて危うい事象といえるし、伝統のみに固執する在り方も先が見えない停滞感に迷い込んでしまう。伝統と未来の問題はそう簡単には解決できない難しい課題である。


伝統と未来の問題は一筋縄ではいかないが、この課題に果敢に取り組んだ興味ある展覧会が最近京都二条城で開催されていた。「nendo × 京都の匠」展である。nendoは佐藤オオキ氏が代表を務めるデザインオフィスであるが、「伝統を未来へ」をテーマとしたICOM京都大会のレガシー継承事業として本展が企画された。正に伝統を守り抜いてきた京の匠達とデザインの未来を牽引するデザイナーとのコラボレーションがどのような形で結実するのか、極めて興味をそそられる企画であった。その作品の幾つかを見てみよう。

「fuu-raijin」宮崎家具

二条城台所の建物の中に入ると光を遮った薄暗い空間の中に木格子の屏風が白く浮かび上がっている。釘や接合道具を一切使わず組手だけで木と木を組み合わせる日本の伝統工芸技術を使って制作された木格子の屏風である。「fuu-raijin」とタイトルがつけられているが、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」を木組みの伝統工芸技法を使って表現したものである。伝統的な屏風で木が使われている部分は屏風の形を支える骨組みのみで、表には見えないのであるが、ここでは発想の逆転が見られ、精巧な木組みの伝統技法を思う存分見せながら、風神雷神という存在のエネルギーの塊を抽出し、暗示して見せている。

「hyouri」小嶋商店

自らの一部両端を飲み込んでいるかのような提灯、三重に入れ子状になった提灯、内部を通過して反対側から顔を覗かせているかのような提灯。ここでは従来の提灯という概念が覆されている。屋外でも使われることの多い京提灯はその強度の高さ、丈夫さを大きな特徴としていた。しかしここではその真逆の発想で、「弱さ」という因子を組み込むことによって新たな表現を獲得している。

京提灯では竹ひご同士を糸でしっかり繋いでいくことによって崩れることない形を成形したのであるが、発想の逆転で、竹ひご同士をきつく繋がず、少し間隔を開けて和紙で留めることによって「まるで「関節」のような可動性を持たせることができ」「最終的に出来上がったものは、京提灯のDNAを継承しつつも、軽やかで多層性のある提灯となった」とデザイナーは言う。

「junwan」 十五代 楽吉左衛門・直入

焼物は普通釉薬をかけて仕上げるが、楽焼の粒子の粗い土質と焼き上がりの多孔質性を利用し、色素を含んだ飲み物を茶碗に吸い込ませることによって、器が自ら模様を描く手法を考え出した。赤ワイン、コーヒー、紅茶、ハーブティー、ブルーベリージュース等々色素を含んだ飲料水を高台から素地に吸い込ませている。ここでもデザイナーの「器で飲む」から「器が飲む」という発想の転換がある。


今回の展覧会に出品されていた幾つかの例を見てきたが、いずれも繊細で、大変美しいものであった。伝統の未来を考えるとき、伝統形成の根底にある発想そのものの逆転は、伝統の殻を打ち破り未来の方向に牽引していくためには必要不可欠なのかも知れない。


それでもなお伝統の未来は難しい問題を抱えているように思える。工芸という範疇を考えたとき、そもそも「工芸」というものは必ず「用途」が背景にはあるはずである。「用の美」が常に言われてきたのはそのためである。屏風はかつては隙間風を遮り、視線を遮るために使用されてきた。提灯も雨風に耐える強さを求められたであろうし、茶碗の釉薬は容器としての液体漏れを防ぐために不可欠であったに違いない。もちろん今の時代、そうした用途は必要としないものもあるだろうが、逆転の発想により「用の美」への配慮は無くなり、その枠組みが外されることによって逆転の発想も可能になったといえる。伝統が未来へ向かうためにはその本質の中の何かが犠牲になることは覚悟しなければならないのであろうか。

 

Writer:佐々木丞平 京都国立博物館名誉館長・京都大学名誉教授

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