「学画」と「質画」

「学画」とか「質画」という言葉を耳にされたことがあるだろうか。江戸時代に隆盛した狩野派の画家、狩野安信が自ら著わした画論書『画道要訣(がどうようけつ)』の中で述べた言葉である。狩野派は室町、桃山、江戸を通して一大流派を形成し400年の歴史を持つが、始祖狩野正信から安信に至る200年の歴史の中で蓄積された画法のノウハウを纏めたものがこの画論書である。


織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった専制君主に仕えた狩野派はお抱え絵師(御用絵師)として絵画制作の仕事を一手に引き受けていた。特にこれら大大名は自らの居城としての城郭を次々と建設し、また大寺院の復興事業なども手掛けていくが、それに伴い、居城や寺院の部屋部屋を飾る障壁画の制作は狩野派の絵師たちに任された。こうした大量の襖絵を制作するための工房が狩野派集団の中に形成される。特に江戸時代に入り、江戸幕府の仕事を一手に引き受けることになる狩野派は、狩野探幽、尚信、安信の三兄弟を中心にした組織作りが進み、奥絵師と呼ばれる狩野四家を頂点にし、その下に表絵師と呼ばれる十五前後の分家が土台を固めるピラミッド型の組織を形成することになる。こうして将軍家から地方の大名に至るまで、狩野派を御用絵師として抱えたのである。ここで登場するのが安信がまとめた『画道要訣』であった。安信に至る狩野派200年の歴史が蓄積してきた画法や、絵の制作のためのノウハウがまとめられ、師から弟子に授けられる免許皆伝の際の秘伝として伝えられていった。「学画」と「質画」はこの秘伝書の中に登場する言葉で、狩野派にとっては重要な意味合いを持っていた。


この狩野派の秘伝書の中で言う「学画」は学んで会得すべき画法、「質画」は個性でもって描く画法と規定され、学画の重要性が強調されている。なぜなら学画は正しく学びさえすれば師から弟子へ、またその弟子へと伝えて行くことができる。しかし、個性が全面的に表に出る質画では、その画法を代々伝えていくことはむつかしく、その画家一代で終わる。だから狩野派では学画によって末代まで画技を伝承してゆかなければならない、という考え方である。


「学画」を重視する姿勢は狩野派の在り方、その特徴を端的に語っている。狩野派では全体を指揮する棟梁がおり、その棟梁の指示のもと、誰もが同じような線が引け、同じような色遣いができなければならない。それができて初めて大量の作品が統一感あるものとして城郭建築や寺院の方丈を飾ることができる。御用絵師として将軍や大名家に仕えて仕事をする絵師にとって、狩野派風の絵が描けることが必須条件であったに違いないが、そこでは「学画」の思想が貫かれていたのである。


芸術表現、美的表現は本来才能や個性ある者が表現したもの、いわば「質画」が存在したはずであるが、それを学ぶことができるようにしたものが「学画」である。正に発想の転換で、賢いやり方といえるだろう。それは突き詰めれば「型」の問題に行き着く。初めは恐らく才能や個性のある者が表現したものをよく観察し、分析し、理論的に「型」として落とし込んでいく。スキルを分析する力が「型」を作っていくのである。この「型」の登場によって確実に学び、それを次の世代にまで継承可能とする。狩野派が400年の歴史を堅持し続けることができたのはこの画法における「型」が存在したからであろう。


このように考えると、日本には「型」によって継承された表現分野が実に多い。狩野派の世界は正に画道であるが、茶道、華道、書道、香道、更には武道、柔道、剣道等まで存在する。いずれも「道」と付くものであるが、そのいずれも技、スキルを分析して生み出されたものである。最初に「型」を作り上げた人の分析力には脱帽せざるを得ないが、その分析力のお蔭で、日本には「伝統」が付く文化が数多く存在し、それが今なお日本の文化の土台を形成していることには間違いない。しかし今の時代、「型」の文化は基盤が危うくなりつつある。型には「学画」が意味するように学ぶ姿勢が欠かせないが、今やそうした姿勢を一気に飛び越えて、「質画」的個性を求める、またそれをもてはやす傾向が濃厚になった。「思いて学ばざるは殆(あや)し」とは孔子の言葉であるが、新しい未来を思い考えるにしても過去を学んでいないとそれは極めて危ういものになる、という。今こそ改めて日本文化の基底を形成している「型」の文化を見直してみる時期に来ているようにも思う。

 

Writer:佐々木丞平 京都国立博物館名誉館長・京都大学名誉教授

 

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